単位は3年までにほぼ取り終えており、卒論108枚も夏休み前に出し終え、就職も決まり、後期は学校を休むようになった。
ゼミは会計学のゼミでありながら、税理士や公認会計士に興味はなく、どだい簿記やバランスシート、損益計算書にも、何の感慨も持たなかった。ゼミ生たちは現役の内に税理士試験は突破しようと、就職先は決まっていても、必死に勉強をしていた。
私はと云えば吉祥寺のJAZZ喫茶に日なが座り込み、時々は井の頭公園を散策する日々だった。下手な小説を書いては50―60枚なら、小説現代新人賞に、100枚をこえれば文学界新人賞に応募をしていたが、一次選考にすら残ることはなかった。
叔父が小説を書いており、読んでもらうと題材が古いと云われた。もっと新人であれば、今の新しい若者像を描かなければダメだと云われた。先人たちが描いた男女の心模様や行状を描いてどうするのだ。現代だ、今を切り取り、新しい人間を描くのだ、と口を酸っぱくして言う。叔父は新しいものが書けず、結局、時代小説へと迂回していた。
新しいか、未だ先人が描いていない世界か、とにかくレア物でなくてはダメらしい。今更、肺結核の世界を描いても多くの人が世に出している。初恋の話や、イタセクスアリスもだらしがない。麻雀の世界は阿佐田哲也(色川武大)がすでに描いてしまった。
当時、世に出た作家たちを見てみると、吉行淳之介は向島鳩の町の娼婦を描いて世に出た。石原慎太郎は湘南の無軌道な太陽族の坊やたちを描いた。野坂昭如はブルーフィルム作りや、人工女体造りのエロ事師たちを描いて世に出る。五木寛之はJAZZを通してモスクワの若者を描き、丸山健二は死刑囚監房の刑吏の鬱屈を描いた。大城立裕は米軍に抑えつけられた沖縄の桎梏を描き、大庭みな子は日本人の目を通して、アメリカの主婦たちの退屈な日々とスワップやアバンチュールを描いた。清岡卓行は日本統治下の大連を抒情的に描き、佐藤愛子は夫の借金返済のための鬼のような日々を描き、柴田翔は60年安保世代の憂鬱と葛藤を描いた。
叔父が云う。
「どうだい、皆、新しい世界を描いているだろう。とにかく世阿弥じゃないが、『新しきこと、珍しきこと、面白きこと』、新奇でければダメなんだ。ユニークで、ストレンジで、アブノーマルで、ほんとかコレ、と言われるくらいに世間をビックリさせなけりゃ、いくら書いても、塵の山だ」
続けて云う。
「要はネタだ。ネタが新しいなら、それから文章力、文体、そして会話体の磨き。着地が大事だな、着地で読む人に満足を与え、留飲を下げさせ、余韻を与えないとな」
「男を次から次に変えて、三回も堕胎掻把している娘を知ってるんですが、どうでしょう」
「新しくないな、ステレオタイプ、そんなのは三島がすでに書いている。先を越されているものは一切書きなさんな。もーっと変な人間を」
JAZZ喫茶で、訳の分からぬダンモを聴きながら、新・珍・面の人間のことを考えていた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)