卒業式が来た。経済学部250名の小さな学校である。本館の屋上から写真屋さんが「上を向いて」と全員に声をかける。今、卒業アルバムを見直すと、ほとんどの者は微笑んでいるが、私は笑っていない。どこか空虚な表情をしている。単位も怠りなく取り、「優」も25は確保した。だからといって、勉強していたわけではない。親の金を使って、落語と、徹夜の賭け麻雀と、JAZZ喫茶と、オールナイトの東映任侠映画と、肺結核治療の日々だった。
4年になると、ほとんどの人間は学校には来ない。久しぶりに式の後、ゼミ生たちと吉祥寺駅前のハモニカ横丁に繰り出した。おおむねは三菱系の大企業に決まっていた。広告業界と云う異端児は私だけだった。広告が「人の行く裏に道あり花の山」となるかどうか、それすら分からなかった。父は田舎に戻り、地場銀行に入れと再三云ってきたが、東京を知った以上、今さら田舎に戻る気はなかった。友の祖父や父親は政治家や経済界の知名士が多かった。就職戦争に苦労せず早々と内定を貰った連中だ。それでも250人中、10人ほどは欠けていた。1年で他大学を受け直した者、アメリカに放浪に出て帰ってこない者、学生運動で他大学のセクトに入っている者、女で身を持ち崩した者、いろいろ居た。
リーダー格のMが、「うちの大学は中庸で、保守で、おぼっちゃんが多いから覇気はない。企業からは体よく扱われる。せいぜい定年までで、よく行って部長が精いっぱいだろう」
「部長なら上出来さ」と広島の友が云う。名古屋が、「コロコロ、コロコロ、変節変貌しながら、生きていくさ」、直ぐに茨城が「ダーウィンの適者生存論か」と茶化す。
「次郎は?」
「そうだな、オレは他人と優劣を争うことはしたくない。分際相応で生きていきたい」
再びMが、「最初から、白旗か」
「いや、負・退・転の決意さ」
「うん、不退転?」
「いや、負ける、退く、転ぶ、の負退転さ」
「ほら、やはり白旗じゃないか」
「いや、所詮、シャバの話しだろ。課長も、部長も、取締役も、常務も、専務も、大差ない。ただ春の夜の夢の如し、さ」
「そこに平家物語をもってくるのか、若いのにいやだねぇ」
話は生臭い初任給の話題となった。
多くは4万円前後、中に4万2千円がいた。皆が2千円の差に嫉妬し始めた。
「次郎は?」
「台所の話はやめようぜ、今さらどうなる話でもなし」
「いいから言えよ」
私は4万5千円だった。とても口を滑らす額ではなかった。皆が言えよ言えよとせまる。仕方なく、「3万8千円だ」と答えた。全員から安堵の吐息が漏れた。
店内のBGMから岸洋子の「希望」という唄が流れてきた。さぁこれから「終わりのない旅」が始まるのだと思った。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)