まだコピーライターとは名ばかりで、デザイナー陣の下働きをしていた。地下の製版部に版下を運んだり、写植課に写真植字の紙焼きを取りに行ったりしていた。タイポグラフ(文字)にもブームがあり、当時はモリサワの書体が人気でとくに太明朝、中明朝の指定が多かった。ゴシック体の指定はほとんどなく、時々は教科書体やナール体などが指定されていた。そのまま原稿に使ったのではひらがなやカタカナで文字間にアンバランスな開きがあり、カッターナイフで文字の間の余白を切り貼りして詰めていく。門前の小僧でデザイナーの仕事を見ている間に徐々に要領を覚え、けっこう切り貼りの加勢をした。緻密を要する仕事で、カッターの切っ先で指を切らぬよう息を殺して作業していた。
5年先輩の武蔵美出身のデザイナーから、「今度、武道館にレッド・ツェッペリンが来るから行かないか」と誘いを受けた。小学校時代はプレスリー、中学校時代はベンチャーズ、高校はビートルズ、大学でローリング・ストーンズ、この頃はツェッペリンに嵌っていた。チケットはもう2枚入手しており、日ごろのお礼におごるという。確か当時で2千円以上したと思う。今に換算して約1万円というチケットだ。
1971年9月23日武道館、前座は頭脳警察だったか。いよいよツェッペリンの出番、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジミー・ペイジ、ジョン・ボーナムと登場し、所定の位置についた。ボーカルのロバート・プラントが中々現れない。「移民の歌」のイントロが鳴り始めた。ロバートは下手から、4〜5mもある革のムチをビュンビュン振り回し、自らのライオン・ヘアーを逆立て、ステージをバンバンバシバシ叩きながら登場した。客は総立ちとなり、あげく椅子の上に立ち上がり、激しいクラップを叩き始めた。立たないと前が見えない。仕方なく先輩と私も椅子の上に昇った。今まで立つことはあっても、椅子の上に立つのは初めてだった。ロバートのシャウト、シャウト、魂の叫び、「アウト・オン・ザ・タイル」「ブラック・ドッグ」「天国の階段」、高い鮮烈な声、リードギターがうねり、ベースが深く厚くリードを支える。ボーナムのドラムも強く激しく、ドラムの皮を突き破るように強靭である。彼らはハード・ロックと分類されたが、マヘリア・ジャクソンのゴスペルを彷彿させる、情緒と哀しみのあるロックだった。
興奮した身を、先輩は新宿2丁目のゲイバーへ連れて行ってくれた。花園神社の信号を渡った真向かいの角の店である。ゲイのママは女装ではなく、普通の恰好だったが、身のこなし、指使い、姿(しな)や流し目はまったく女性だった。この店で浴びるように飲み、酔いつぶれた。朝目覚めるとまだ6時くらいで、店のソファーで寝ており、テーブルの上に書置きと鍵が置いてあった。「鍵を閉めたら、郵便受けに入れといて」だった。先輩とママはどこに消えたのか…。
あわてて新宿駅南口に走り、三鷹まで戻り、風呂のないアパートだから、お湯を沸かし、髪を洗い、髭を剃り、体を拭いて、下着を着替え、再び中央線で神田へと向かった。まだ体の中をツェッペリンの血のビートが奔っていた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)