コピーライター部で鎌倉にハイキングへ行こうとなった。朝九時に北鎌倉駅集合ということで、総勢20名くらい、ちょっとした御一行様である。駅を出て左に曲がると、円覚寺に入る踏切がある。どうも小津安二郎監督の「麦秋」で見た光景である。参拝し境内を抜け、明月院に向かった。紫陽花の季節ではないから、客も少なく、じっくりと秋の清明の山ノ内界隈を堪能した。十王岩で鎌倉の町並みを見下ろしながらお昼休憩となった。
コピー部に憧れのお姉さんライターがいた。ベレー帽を粋に被り、ハイウエストのバギーパンツで颯爽と歩いていた。女優の佐藤友美風で、横顔に何人も寄せ付けない尖りがあり、気さくに声かけられるような雰囲気ではなかった。コピー部の先輩と秋の鰯雲を見上げながらそぞろに箸を動かしていると彼女が寄ってきた。私には目もくれず先輩の横に座り、「こんどS社がファッション雑誌を創刊するので、そちらに誘われているの、どう思う…」と相談していた。アンノン層より少し上のキャリアウーマンを狙うと云っている。先輩とは恋仲なんだろうか、先輩は「もう答えは決まってるんだろ」とぶっきら棒に答えていた。
今から浄妙寺まで歩くと云うから、私は先輩に最終地点長谷の大仏には時間までには行きますから、しばし別行動をとお願いした。
「どこへ、行くんだい」
「ええ、私と同じ故郷の、中津出身の熊谷久虎という映画監督が、浄明寺八五番地に住んでいます。原節子さんも同じ場所で暮らしてると聞いており、その界隈をブラついてから向かいます」
急に彼女が口を挟んだ。
「ハラセツコが住んでるの、私、行ってみようかしら、連れてって」
先輩は同調せず、「じゃあ、大仏で会おう」と御一行に残った。八五番地までの界隈は、成瀬巳喜男監督の映画「山の音」で見るような路地の細い生垣の静かな住宅街だった。
「その熊谷さんという人と、ハラセツコはどんな関係なの」
「ああ、熊谷さんの奥さんの妹が原節子です。つまり、熊谷さんは原さんの義兄となります。戦時中、中津に一家で疎開しており、母がよく駅のホームに立っている原節子を見かけたと云ってました」
やっと熊谷家の表札を見つけた。純和風のクラシックな落ち着きのある家だった。生垣の向こうに庭があり、ひょっとして原節子が出てこないかしばらく二人で佇んだが、人の気配は全くしない、怪しまれてもいけないから、諦めることにした。住まいを確認できただけでも嬉しかった。
「ハラさん、映画に出なくなって、もう何年になる?」
「はあ、忠臣蔵が最後ですから、もう約9年になりますか」
「そう、創刊号の特集はハラセツコでいこうかな」
彼女はその企画をもってS社に移籍するのだろうか。いい匂いのする、知的できれいなお姉さんだった。私は原節子より、こちらに気を取られていた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)