
明治44年という年は、音さんフアンなら誰でも知っている、音さん48歳の没年です。そしてまた、いろんな事が重なっています。
この年、新しい女優が誕生しました。25歳の松井須磨子です。須磨子は長野県松本の出身で、東京に出て二度目の結婚中に、坪内逍遥の文芸協会第一回研究生となりました。女優となる準備として、その頃流行し始めた隆鼻術で整形しています。43年の秋には演劇に没頭しすぎて二度目の離婚をしました。
44年、逍遥さんが私費で建設した文芸協会演劇研究所の私演場が完成しました。
9月、私演場完成披露としてイプセン作の「人形の家」が第一回研究生によって上演されました。須磨子のノラが大好評でした。
「人形の家」は私演に続いて、3月に開場したばかりの帝国劇場で、11月28日から12月4日まで上演され、一大センセーションを巻き起こしました。
偶然この年の9月1日に、「女性解放運動の拠点になった青鞜社の機関紙『青鞜』が出て…やがて平塚雷鳥は日本のノラといわれはじめ、『新しい女』という新造語も生れた。反面、倫理学者を中心に、夫を捨て子供を捨て、家を出て行くノラの生き方への反発も強く* 」なって世論は沸騰し、同時に須磨子は一躍トップスターとなったのです。
もうご存知のように、「人形の家」上演の直前、11月11日に、音さんは長年の無理がたたって亡くなっています。音さんはまえの年に自力で建設した大阪の「帝国座」で貞さんに、儲け主義でない演劇をつづけてくれと言い残して息をひきとりました。イプセンの「民衆の敵」の稽古中でした。
「民衆の敵」の主人公を足尾鉱山鉱毒事件で告発運動を続けた田中正造とに、重ねての演目選択だったといわれています。自由民権運動から演劇改良の道に進んだ音さんにとり、「民衆の敵」こそはその集大成のひとつであったはずです。
波乱の歳月にか細く痩せ、また40歳となった貞さんは、舞台では含み綿で頬のたるみをカバーしたといいます。新しい技術・隆鼻術で女優となった須磨子。時代の流れはこんな所にも感じられますね。「新しい女」たちは、大正デモクラシーを牽引します。
須磨子は島村抱月との恋愛問題で文芸協会を退会。抱月と芸術座を旗上げして、大正3年帝国劇場でトルストイ「復活」を上演します。須磨子の劇中歌「カチューシャの歌」は大ヒット。レコード化されて空前の売り上げ2万枚。
貞さんは大正7年10月、女優歴18年で引退、福沢桃介と名古屋で暮らし始めます。
11月5日、抱月スペイン風邪で死亡。48歳。翌年1月5日「カルメン」出演中の須磨子、後追い心中で縊死。女優歴9年、享年34。
川上絹布株式会社を設立して女性実業家となった貞さんは、大正13年川上児童劇団を設立、12月に名古屋御園座で第1回公演。音さんの遺志を忘れていませんでした。
*大笹吉雄「日本現代演劇史 明治・大正編」白水社