
千灯明、辻祈祷、飢人地蔵、盆仁和加、大浜流灌頂など夏の博多の行事が過ぎると、筥崎宮放生会。ということで、一杯一杯また一杯の仕切り直し。秋だもの。
「われわれの間では誰も自分の欲する以上に酒を飲まず、人からしつこくすすめられることもない。日本では非常にしつこくすすめ合うので、あるものは嘔吐し、また他のものは酔払う」
これは、16世紀の日本で35年間布教したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが「日欧文化比較*1」で書きのこしたもの。題名のとおり、ヨーロッパと日本の違いを箇条書きにしてあり、どこから読んでもおもしろい。ほかにも思いがけないことがたくさん書いてある。
「われわれはすべてのものを手をつかって食べる。日本人は男も女も、子供の時から二本の棒を用いて食べる」
そうか、ヨーロッパでは手づかみで食事していたんだ。さて、酒のことでは、
「われわれの間では葡萄酒を冷やす。日本では、(酒を)飲む時、ほとんど一年中煖める」
冷酒というものが登場したのはいつからだっけ。それまではほんとに夏でもお燗していたんだよなあ。
「われわれの間では(食事が)始まると直ぐに酒を飲みはじめる。日本人はほとんど食事が終わったころになって、酒を飲みはじめる」
これはおもしろい。いまではちょっと考えられない。それで、博多の寄合いのときに本を持参して人に見せたら、ある人がすぐに、「おお、酒の飲み方が欧化したとやねえ」と声を上げた。西洋化は明治維新からではなく、鉄砲伝来からということだ。
江戸時代の風俗百科である「嬉遊笑覧きゆうしょうらん*2」にも、宴の由来なんぞが書いてある。
「宴を『日本記』に、『うたげ』と訓よめるは拍上うちあげの義にて、手をうち遊ぶことよりいへる也…」
拍上と現在の打ち上げってのに関連はあるのだろうか。宴もたけなわになると席が乱れたりする。「太平記」に無礼講のありさまが書いてある。
後醍醐天皇派が鎌倉幕府を倒す密議のため、無礼講と称して集まったのが有名。みんな烏帽子をとり*3、もとどりを解いて酒盃も上下の区別なくまわしたという。僧侶も墨染めを脱ぎ、また美形の娘たちを裸に近い格好で侍らせたそうな。
ところで、博多には博多練酒という名酒があった。「碧山日録へきざんにちろく*4」応仁二年(1468)の条に博多名産の練酒ねりざけのことが書いてあるそうだ。練絹のような白酒で長持ちすることも有名だったとか。
白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒の肴にと思って書きつらねてみた次第。
*1)日欧文化比較…岩波文庫・岡田章雄訳注では「ヨーロッパ文化と日本文化」と改題。引用は岩波文庫。
*2)嬉遊笑覧…喜多村筠庭著・文政13年(1830)・岩波文庫全5巻
*3)烏帽子をとり…この時代、人前では必ずかぶり物を着用していた。
*4)碧山日録…京都東福寺内にあった霊隠軒の太極が書いた日記。