風立ちぬ
夢の中に居た。白樺林の中を私は病院着を着て歩いている。縊死するにはどの木がいいか、体が熱い、腋下を抜けていく風が気持ちいい。遠くにサナトリウムの白い建物が見える。
大学3年の初め、寝汗をよくかくようになった。急に体重が落ち始め、60㎏の体重が一月で55㎏まで下がった。キャンパスの一番奥、グランドのそばに瀟洒な診療所があった。阿佐ヶ谷にある河北病院の院長が校医だった。50歳くらいだったろうか、背が高く、胸板の厚い、昔ラグビーでならした人だと聞いていた。学園のOBであり、体育保健学の講師もしていた。温顔の優しい目をしている方で、症状を話すと直ぐにレントゲンを撮ることになった。
三日後に診療所へ行くと、精密検査が必要だから、直ぐに阿佐ヶ谷へ行けと云う。駅を降りて北口を右方向に歩くと、左手に大きな河北病院があった。断層写真を撮る。院長がフィルムを読映をし、「やはり結核だな」と云う。右肺の上層部、鎖骨の下、病名は「肺結核小潤集巣」、夢は現実となってきた。半歩、堀辰雄に近づいた気がする。
すぐに三鷹保健所に連絡をとるも、井の頭に住民票を移していないことから、故郷の保険所に連絡を取らされた。東京と九州とでは遠いので、治療費は公費負担だが、いったん自らが払い、故郷の保健所に再請求することとなった。
「どこか山のサナトリウムか何かに入るのでしょうか」
「入院も、手術をするほどのこともない。通院で十分だ。それも化学療法で治せる」
堀辰雄に成れずにがっかりする。
42年前の「結核予防法第三十四条関係診療報酬請求明細書」を今も保管している。注射欄はSM(ストレプトマイシン)に丸が記され、筋注週二回となっている。投薬欄はPAS(パス)とEB(エタンブトール)に丸が打たれ、菌検査、血沈検査、レントゲンに印がつけられていた。院長より、来年の就職時期までには完治させようと励まされる。
「治療中では企業は採ってくれないだろ。生活を改めてしっかり治せ」
と、煙草、酒、夜更かしを厳禁された。
初ストレプトマイシンには参った。婦長さんが肩の筋肉では痛いから、お尻に射つという。ベッドにうつ伏せになり、ズボンを下げると、パンツをグッと下げられて、臀筋にググッと針が射ち込まれた。抜いた後から重い痛みが襲ってくる。婦長が痛みの引くまで揉み続ける。これを週二回月曜と金曜に続けるのである。
病院を出て、駅に向う途中から体に異変が起きた。全身が石膏で固められていく感覚である。手足の先が麻痺していく。自分の体が自分のものではない。これは凄い劇薬を射ち込まれた。痛みも何にもない結核と云う病いの怖さをこの薬で知った。院長の云う通り一年で治癒したとしても、肺に痕は残るだろう。どうせ身体検査でばれる、就職は無理か。息子に期待している母のことを想うと、暗澹たる気持が胸を塞いだ。
「風立ちぬ いざ生きめやも」
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)