イルフォード
夏休みが来た。まる二ヶ月間の休みである。結核の治療を故郷ですることにした。河北病院の院長から、診断書と胸部レントゲン及び断層写真一式を持たされる。
「田舎は空気もいいだろうから、滋養のあるものを食べて、ゆっくり静養して、結核菌を追い出して来い」
と、励まされる。本当に慈顔の優しい先生である。
父も交通事故の治療から退院し、右手の動きも大分良くなったと聞いていた。
夕刻の東京駅に行き、特急富士の寝台車に乗る。カレチ(客車列車チーフ)が器用に三段のベッドを作り上げていく。幅60センチくらいの蚕棚である。多くの人は早々と緑のカーテンを閉じてベッドに篭る。皆は下段を欲しがるが、私は常に最上段でここは天井が高く居心地がいい。中段は上下からの圧迫感があり、最も人気が無かった。
通路の折りたたみ椅子を出し、夜の街や村々の灯を眺める。いずれの屋根の下にも暮らしがあり、家族がいて、今頃は夕餉の時間だと思うと父母が恋しくなる。故郷とは父母が居るから故郷であって、父母が居なければ単なる田舎に過ぎない。深夜まで私はこの椅子を占拠し、通過して行く無人のプラットホームを見つめる。この頃はまだブルートレインなんて云うしゃれた呼称はなかった。10時くらいに、真ん中に取り付けられた細いスチール製の梯子を上がり、ベッドに入る。電車の揺れに体のリズムが合うころに眠りに落ちた。
朝、関門海峡を渡ればもう帰り着いた気分になる。あとまだ1時間以上もあるのに、荷物をまとめソワソワしてくる。小倉から行橋の間がもどかしく長い。行橋を過ぎれば見馴れた山々、田んぼ、小川、周防灘と独りでに心が浮かれてくる。右前方に八面山が見えてくる。左前方に故郷の小さなお城が見えてくる。荷物と大きな胸部写真類を持って出口に向う。山国川を渡る。子供のころ泳いだあたりを見つめる。
ホームには両親が待っていた。
父はまだ文字が元通りに書けないと言っていたが、未だに私を子供扱いし、荷物をすべて持とうとする。肺結核の息子が不憫だったのだろう。その夜は父がケチャップ一杯の軍隊式ビフテキを焼いてくれた。
翌日、保険所指定の病院へ母と行く。田舎の国立病院の内科部長で、開業したばかりのTと云う先生だった。結核が専門と聞いた。河北病院からの診断書と、院長の手紙と、写真類を差し出した。T先生は一読し、ゆっくりと写真を大封筒から取り出した。照明器に写真を貼り付け読映に入る。
しばらくじっくりと見つめて、やおら溜息をつくようにこう言った。
「やはり、東京だなぁ。いいフィルムを使ってる。イルフォードか、うちもこれくらいのを使わなきゃなぁ。イルフォードかぁ…」
私の胸の病巣には目をやらず、愛しむようにフィルムの厚さやコシの強さを何度も確認し、イルフォードの解像度を褒め称えた。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)