まだ始まってねぇよ
昔、吉祥寺は「ジョージ」と呼ばれていた。
45年ほど前、駅はまだ高架ではなく、よくある田舎駅舎で、そこに井の頭線が斜めに突き刺さっていた。北口には戦後的な狭い路地のマーケットが残っており、皆は関東バスで大学まで行くが、私はバス代を浮かせるために徒歩で行った。面白くない講義は出席の返事を済ませば直ぐに教室を抜け出し、ジョージをさまよう。成蹊通りから仲道通りを青白い顔で流していた。
所在無く、ウニタ書店を冷やかす。吉本隆明の「試考」や、大杉栄、伊藤野枝あたりの本が並んでいる。もちろん金子光晴や秋山清の詩集もふんだんである。どれも学生の身にはちょいと高価であるが、その日は秋山の詩集を買う。新宿の鈴木清順監督の奥さんのスナック「かくれんぼ」で、一度秋山の謦咳に触れたことがある。着物姿の若く美しく女性を同伴していた。
南口に回り、スバル座で「俺たちに明日はない」(アーサー・ペン監督)を観る。ボニーにフェイ・ダナウェイ、小生意気な娘である。クライドにウォーレン・ビーティ、甘い顔の優男である。太く短く、反社会的に生き、最後は蜂の巣に撃ち殺される。いい死に方だと、ひとり拍手する。つられて何人かの付和雷同的同士が続く。北口に戻り、ニヒルな気持で「ファンキー」と云う地下のJAZZ喫茶に行く。一人客ばかりが屯している。なぜかスピーカー傍の席から埋まっていく。JAZZにはコーヒーより、酒が良く似合う。その頃はチック・コリアあたりが流行っていたと思う。「リターン・トゥ・フォーエバー」を聴きながら、ハイボールでパスとヒドラを飲む。
療養中は紫煙の雀荘に顔を出すわけもいかず、映画ばかり観て過ごした。その週は「卒業」(マイク・ニコルズ監督)が掛かっていた。この映画は最後の教会シーンばかりが喧伝されるが、ダスティン・ホフマンを誘惑するミセス・ロビンソン(アン・バンクロフト)の心理が興味を引いた。娘に嫉妬する母親、アメリカは日本よりずっと早く頽廃を会得していた。
続けざまに、「真夜中のカーボーイ」(J・シュレシンジャー監督)を観る。九州の片田舎から上京している者には、身にしみるストーリーである。大都会の孤独、一発当ててやりたい野心、空回りの上滑り。ニューヨークも東京も、田舎者にとって冷たい風の吹く異国だった。
新宿に出て、「明日に向って撃て!」(ジョージ・R・ヒル監督)を観る。「真夜中」と同じく男二人連れの映画だが、前者には救いがなく、こちらにはまだ救いがあった。最後、ボリビア軍に囲まれた中、P・ニューマンとR・レッドフォードは突貫する。多分、蜂の巣になっただろうが、ストップ・モーションで生死はぼかしてある。私は生きていると確信した。
映画の中盤、保安官が二人に云う。
「ユアタイム イズ オーバー(お前たちの時代は終わったぜ)」
P・ニューマンが答える。
「ノー マイタイム イズ フロム ナウ(まだ、始まってねぇよ)」
異国の東京で、この言葉に鼓舞された。
中洲次郎
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
RKB毎日放送「今日感テレビ」コメンテーター。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
新刊『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)