苗字って庶民にはなかったものと思っていました。だから承天寺開山の聖一国師が、お饅頭の製法を茶店の主人栗波吉右衛門に伝授したという話には、なんで茶店の主人に苗字があるんかいなと思っておりました。
ところが、櫛田神社の歴史資料館に展示されている能舞台の棟木には、町人の苗字がしっかり書かれているんです。ふるさと館の学芸員に教わったんですが、あの川上音二郎の祖父の名が、「川上弥作茂満」と書かれています。川上?茂満?何だこれは!?
棟札の日付は、明暦2年(1656)閏4月吉祥日で、4代将軍家綱のころ。「奉造立櫛田宮舞台一室 大檀那国主筑前守松平光之公 社頭安全津内繁昌諸使楽祈處」と、書かれています。光之公は3代目藩主で当然黒田氏ですが、松平の名を徳川家からもらったんですね。外様大名でも10家余りが徳川氏の本姓である松平氏をもらっています。
棟木には下のほうに、嘉永元年(1848)5月に再建として、世話人の博多町人14人のなまえが列記してあります。全員、「姓名*」が書かれているんです。年行司示談役伊藤久右衛門陳義・年行司瀬戸喜助義寛・嶋井善兵衛茂軌のほか、年寄・前年寄が11人です。年寄の一人が「対馬小路中・年寄・川上弥作茂満」なんです。
こりゃどうしたことかと思って、一夕一献をともにした西南大の宮崎教授に失礼ながらメールで質問したところ、「お答えします」と厳かな返信がありました。次のとおりです。
「『川上弥作 茂満』は、『弥作』が『通り名』で、基本的に代々受け継がれていく名前、『茂満』が『諱(いみな)』だと思います。よって、棟札には、『通り名』と『諱』が併記されています。このように名前をいくつももっていることは、江戸では一般的で、明治になって名は一つだけになりました。また、苗字についてはだいたいもっているでしょう。『公的**』に名乗るときは藩の許可が必要で、献金して苗字を名乗ることを許された町人・農民は江戸の終わりになるに従い増加します。苗字をもっていても、公的に(例えば藩へ提出する書類など)苗字をつけることはできせんが、私的な棟札では問題ありませんので、藩からの許可がなくても、苗字を名乗った可能性があります」
そ、そうだったんですね。辞典など急遽調べてみたら、農民や町人も童名から成人名にかえ、また、お寺から法名をもらったりしたそうです。明治になって苗字を名乗ってもいいよってのは、新政府の四民平等寛大な措置だと思っていたら、なんかちがうようです。ひとり一生一名でとおせってことなんですね。これには税金の個別割り増し徴収や徴兵人員把握などの目的があったようです。
博多を知ろうとすると、なんやかやの基礎知識不足を痛感。勉強だ、僕は勉強するぞ、と下駄を履いて表へ駆け出したくなります。
*姓名…姓(かばね)と氏(うじ)ってわかりにくいです。姓は地位を表す名まえ、氏は血縁を表す名まえ。「氏より姓」といいますが、地位がわかるからなんですね。ゆずよりかぼす…ってギャグってる場合ではないですね。本文では「氏名」と書くのが今風ですが、昔は「うじな」と読むのであえて姓名と書きました。町人には基本的に姓はなくて、苗字+実名=氏名だと思います。そっか、教授に聞けばいいんだ。
**公的…櫛田神社所蔵の「博多店運上帳」には、紺屋弥作と書いてあって、苗字は書かれていない。
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