ああ、今年も不景気だったなあ。パーッと景気がよくならないんだろうか、バブル時代が懐かしい、なんてつい思ってしまいます。
実は江戸時代、福岡博多にもバブル景気がありました。経済改革といえば幕府の享保・寛政・天保の三大改革が有名ですが、いずれも緊縮倹約政策です。ところが天保5年、福岡藩が実行したのは驚天動地のバブル政策でした。
この福岡藩天保の改革は眼科医白水養禎(ようてい)のアイデアで、彼は御救仕組(おすくいしくみ)奉行に登用されバブルの采配をふるいました。つまり、紙幣を大量に発行して武士や領民に貸し付けたんです。幕府とはま逆のインフレ政策、みんなで遊べば怖くないってわけです。このバブル政策は当然大失敗におわり、白水養禎は天保8年島流しになってしまいました。
宗像の庄屋さんの「古野家家事記録*」には、博多のバブルのようすがつぎのように書き残されています。―御救方仕組(おすくいかたしくみ)により夏、博多中島で相撲芝居あり。柳町遊女もご免にて高座敷で見物。前代未聞だ。―秋には江戸役者団十郎*や上方役者の芝居があり、御構女中方、御家老方の女中方までもご見物になった。―天保6年、博多通り筋・中島町筋に上方同様の夜店がでた。芝居所の跡で富くじ・鶏蹴合せ・牛馬売買免札・茶屋などいろいろできて、風儀の悪い事がはなはだしい。
この時代、遊女の外出はいっさい禁止で、病気になっても遊郭の外の医者にはかかれなかったんです。武家の女中方も町方の芝居見物など禁止でした。
中島新地の芝居や角力の興行は博多の年行司が仕切りますが、興行責任者にはその道に通じた民間人がえらばれました。福岡から4人、博多から6人です。そのうちの一人は、呉服町の目明し忠七でした。博多にも目明し*がいたんですね。(井上精三著「博多風俗史 芸能編」積文館書店より)
目明しは岡引(おかっぴき)ともいわれます。町奉行配下の役人である与力や同心*が、犯罪捜査に協力させた民間人です。小説の銭形平次は正義の親分ですが、本物の目明しはだいたい地位を利用して庶民を苦しめたようです。幕府は何度も目明しを使うことを禁止しますがなくなりませんでした。
正規の役人は、南北の町奉行配下の与力が各25騎と、与力の部下の同心が各100人(のちに各140人)です。大江戸最盛期の町人は50万人、無宿人もいっぱいいたからとても手が足りません。犯罪が起きると裏事情に通じた目明しは欠かせなかったんですね。幕末の江戸には目明しの親分400人弱と、親分方に同居する下引(したっぴき)が1000人いたといいます。
博多の目明し忠七がどんな人物なのかはわかりません。
*古野家家事記録…「宗像市史 近世史料編」所収。
*団十郎…七代目市川団十郎。当時は息子を八代目とし自分は海老蔵を名乗っていた。中島公園に来演碑が建っている。
*目明し…ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディア・日本歴史大事典・広辞苑より。
*与力・同心…もと侍大将や足軽大将の助勢の武士。与力は騎馬で戦ったことから一騎二騎、同心は徒行なので一人二人と数える。町奉行配下は町与力・町方同心とよばれ八丁堀に住んだ。
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