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長谷川法世のはかた宣言19・誕生碑発見記

長谷川法世のはかた宣言19・誕生碑発見記


昭和33年、西鉄ライオンズが日本シリーズ3連覇に向けてスタートを切ったころの話です。もう半世紀前の話ですが、私は冷泉小学校を卒業して博多第二中学校に入学しました。そうして通学路の途中になんだかわからない石碑があるのを発見したんです。

それは沖濱稲荷神社の入り口に建っていました。私は石碑を横目で眺めながら通り過ぎました。横目で、というのはそのあたりが奈良屋小学校区だったからです。冷泉校区なら、立ち止まったり、裏側に回ったりして石碑全体を眺め、それが川上音二郎誕生碑であることがすぐにわかったはずです。

けれど石碑はほとんどなじみのない奈良屋校区にありました。ですからそこが沖濱稲荷神社であることも、石碑が2年前の川上音二郎音さん45回忌に建立された誕生碑であることもまるで知りませんでした。

石碑の表題は、細いくずし字で書かれていて読みにくかったのですが、それでも発見から何日かすると「川上音二郎」という名前が読めました。
「川上音二郎?」

その名前は博多の子どもなら誰でも、「オッペケペー節の芸人」ということで自然に覚えたものです。しかし、芸人がどうしてりっぱな石碑になるんでしょう。謎でした。

以来石碑を横目観察するのが日課になりました。立ち止まってゆっくり観察したいという興味はあったんですができませんでした。新1年生が登下校の途中に他の小学校区で寄り道するのは冒険です。私はまっすぐ歩きながら横目で毎日通り過ぎました。

音二郎の文字が判読できてすぐに、石碑の下段には「オッペケペー節」の歌詞が彫りこまれてあるのも発見しました。
「やっぱ、川上音二郎ばい」

けれど音二郎の実像を知らないわたしは、りっぱな記念碑に納得がいかないのでした。何週間か何か月かして、名前の下には「誕生碑」の文字があり、一番上には「新演劇祖」が二行で彫られていることも知りました。
「新演劇祖 川上音二郎誕生碑」

それが全文でした。私はトロイの遺跡を発掘したシュリーマンのように小躍りしました。それでも、添え書きしてある「喜多村緑郎書」はなかなか読めません。喜多村緑郎が名女形ということも知りませんでした。

そうした音二郎の誕生碑を巡る私の横目探究は中学2年の三学期に突然終わりました。私の家は博多を出て糟屋郡へ転居したのです。以来、通学路も変わり誕生碑を見ることもなくなりました。だから、沖濱稲荷の境内にはいって碑背の碑誌を読んだのは、かれこれ45年も後になってからだったのです。

お知らせ
今年「音さん生誕150年」を記念して、新しいブログを開きました。
「川上音二郎生誕150年明治博多オッペケペー」という、キーワードたっぷりの長いタイトルです。ぜひ見て下さい。

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