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長谷川法世のはかた宣言44・父専蔵・にわか

長谷川法世のはかた宣言44・父専蔵・にわか


日本の小学校のはじまりは明治6年から。福岡ではこの年に大明小や簀子小、博多では袖港小*1・行町小・瀛浜小*2・小山小の4校*3ができた。

1年生に「うひまなび*4」という教科書があり、綴字という授業があった。ひらかな・カタカナにはじまって、「かなみつのことば」(仮名三つの言葉)に進む。いろは・いはほ・いとこなどのあと、はじめ・はんし、そして「にはか」が出る。も、もしや博多でもさかんな芸能の「にわか」だろうか。

かなみつのことばは名詞が多いが、いそぐ・いまだ・はらふなど名詞以外もある。ま、ここは「突然」という意味の「にはか」かな。でも、辞書の用例ではふつう「俄に」というように助詞がつくんだけど。

芸能のにわかは、俄仕立ての滑稽寸劇。俄狂言・茶番狂言などともいわれた。しろうとが屋外で演じる「流し俄」が本来で、江戸時代京阪にはじまり、プロも登場。江戸では吉原俄ができた、と辞書にある。う〜ん、吉原遊女も演じる俄を小学1年生に教えるかあ。音さんの妻・貞さんも芸者のとき俄をやったそうだ。音さんは政治演説がだめになったら改良二〇カで民権啓蒙をつづけた。樋口一葉の「たけくらべ」にも、茶番・仁和賀がでる。

明治12~3年頃、博多に鬼若組というにわか集団があった。17名の名簿*5の中に「中対馬小路観世流皷大皷名人川上仙蔵(川上音二郎氏の父)」がある。仙蔵は専蔵*6が正しい。

音さんは明治24年6月に東京の中村座公演で大成功し、すぐに父を東京へよびよせたようだ。博多の実家はすでに没落していた。專蔵さんは翌年7月7日に今戸(台東区)の自宅で亡くなった。専蔵さんは東京下町で皷やにわかを楽しんだろうか。

当時の新聞記事*7を要約。「日暮里の火葬場で火葬し、高輪泉岳寺で遺命により質素に葬い、境内の川上一家招魂碑のそばに葬る予定。同寺に焼香料百円を寄進し、その余は貧民に施すとか」。

1年後、音さんは専蔵さんの墓参で帰博。新聞によると、「6月12日川上座員40余名は箱崎に着港、福岡入り*8。一同は弁護士のようなそろいの喪服。千余名がでむかえた。翌13日には市長ほか紳士紳商連を東中洲の福村屋で饗応、15日に法会をいとなんだ。

質素にとおもったが、知己親戚・川上旧宅町内の人々など招いたので寺院ではせまい。東公園*9に仮屋をたてて日蓮宗11か寺の僧侶の読経。西洋および日本古楽の演奏ありの、350余名の参列者ありの、知己友人の寄付で打ち上げ花火ありの、せっかくだからと博多教楽社でひと興行し連日大入りのという、大にぎわいの墓参とはなりましたんですね、にわかに。

*1)袖港小…音二郎が入学。満6歳からの下等・上等の8年制。この年、正月生まれの音二郎は遅生まれの10歳、上等小学校1年生入学か。
*2)瀛浜小…おきはま小と読める。
*3)4校…博多小10周年誌より。「福岡県教育百年史・第七巻」(S55・福岡県教委)には明治6年県内創立小学校に「冷泉小」も。
*4)うひまなび…初めての学びの意。柳川春蔭(柳河・春三とも)編纂・発行年不詳。国会図書館近代デジタルライブラリーで原本公開。福岡大学蔵書検索に明治2年版がある。うひまなびの項今野真二「日本語の現代」ちくま新書を参考。
*5)名簿…「博多二〇加」間部房丸著・博多二〇加芸術協会S33発行に所収。
*6)専蔵…博多店運上帳(櫛田神社蔵。井上精三「川上音二郎の生涯」葦書房p10所収)、東京谷中霊園・川上音二郎君之像撰文・新聞記事ほか専蔵と書く。
*7)新聞記事…中央新聞7/10付・東京日日新聞7/9付。墓参の記事は都新聞6/16・18付ほか。白川宣力「川上音二郎・貞奴 新聞に見る人物像」雄松堂出版所収。
*8)福岡(=博多)入り…唐津街道石堂橋経由が東からの博多入り正式ルート。山笠お汐井取りも石堂橋を往復。歌舞伎役者連も石堂橋から博多へ「乗り込み」した。墓参の川上一座が乗り込みしたのはすでに興業予定あっての事か。
*9)東公園…明治9年(1876)福岡県最初の県立公園に指定。

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