柏原宿図は信濃町教育委員会作製案内板より
博多図は福博古図(仮)より
目出度(めでた)さも ちう位也※1おらが春
俳人一茶のふるさとは北国(ほっこく)街道柏原宿。その一戸平均の間口は8.117間(けん)。遺産相続で真半分にした一茶の家でさえ4間3尺2寸5分の間口。かたや博多の町家は85%が間口2間から3間というんだからめげてしまう。
でもここでめげてはなりません。実は申し訳ないことに資料の読みまちがいがあって、柏原宿のほんとの平均間口はもっとずっと広かったんです。おわびして訂正します。
柏原宿の長さ483間のあいだに119戸があったというのは本※2の読み違いで、ほんとはわずか79戸だった。すると平均の間口は驚愕戦慄の12.227間※3という数値となった。
念のため柏原の「一茶記念館」に問いあわせて確かめると、119戸の内79戸以外の40戸は、483間の外側にあとから建てた家だそうだ。なお、相続分割前の一茶実家の間口9間3尺8寸は、柏原宿では「中位」ということだった。(ならば、実家を半分にした間口4間余りの一茶が相続した家は「下の位」となる。「…ちう位也おらが春」は、これまで謙遜の句かとおもっていたが、見栄の句とも考えられる)
問題は博多町家だ。85%が間口2間~3間というのは平成の調査。柏原宿と比べるには江戸時代の数値を知る必要がある。
1800年(寛政12)頃の三奈木黒田家※4の「福博古図(仮)※5」には、町ごとの家数と屋敷地※6の間数が書き込まれている。柏原宿の483間は街道筋の長さなので、博多も唐津街道をしらべてみよう。東から石堂橋を渡って博多に入り西中島橋にいたるまでの7町※7が対象となる。
7町の家数は合計185戸。屋敷地の総間数は494間1尺9歩※8。道路両側の屋敷地全長494間(端数切り捨て)を185戸で割ればいい。で、平均間口は、な、なんと2.67間!江戸時代も平成も博多町家の平均間口はかわらないようだ。いったい柏原宿と博多の家の平均間口の格差はなんなんだ。
ちなみに一茶の相続財産は、家のほかにも田畑3か所1石26斗4升9勺分と、山に3か所があった。
もう、おらが春どころでねえッ、つづく~ッ!
※1)ちう位也…上中下の中位。長野・東北方言「ちゅーくらい」(いいかげん)の意など諸説ある(矢野勝幸校注『父の終焉日記・おらが春』岩波文庫)
※2)本…高橋敏『一茶の相続争い―北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書。51~54頁を読み間違えた。ややこしいんだもん。
※3)12.227間…10進法の計算値。一茶の家の間口4間3尺2寸5分は尺貫法。1間は6尺、寸と分は10進法。
※4)三奈木黒田家…福岡藩筆頭家老。三奈木に館を構えたので三奈木黒田家といわれる。
※5)福博古図(仮)…宮崎克則他編『古地図の中の福岡・博多1800年頃の町並み』での略称。原図は九州大学所蔵。
※6)屋敷地…家の建つ所。道路全長には辻などがはいるが、屋敷地全長は課税対象となる家並みの部分だけ。
※7)7町…官内町・中石堂町・中間町・綱場町・掛町・麹屋番・橋口町。
※8)歩…歩は一般に面積の単位。長さの単位は「分」。一茶の家も間口4間3尺2寸5「分」。だが福博古図また石城志・石城異聞・博多津要録では「歩」を使用。藩により用語類は異なることがある。筑前国続風土記では歩を探せなかった。