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長谷川法世のはかた宣言116・花火の法要(二)

長谷川法世のはかた宣言116・花火の法要(二)


 川上音二郎一座は、浅草鳥越の中村座で大成功をおさめた。明治24年(1891)6月、音さんは満27歳※1 だった。

 その中村座公演の前後に、博多の両親と音さんのエピソード※2 がいくつかある。まず、中村座の二か月前、音さんは小田原で裁判※3 にかけられた。4月18日には博多からやって来た継母が証人として出廷。音さんは20日に無罪になったが、翌日検事が上告し、控訴審が横浜で開かれることに。音さんは横浜へ移送。その間に両親は座員につきそわれ、箱根湯治(22日)や江の島観光(25日)にでかけている。のんびり!

 5月5日に音さんは晴れて無罪となった。それから6月20日の中村座初日までの間に、音さんは9世市川團十郎の弟子※4 になるとかならないとかで、新聞(読売6/15)をにぎわせる。これは、2月に團十郎の芝居を観て感動した音さんがぜひ弟子になりたいといい、父の知り合いだった市川権十郎を通じて團十郎に頼み込んだものだという。

 もう一つ、両親のため銀座の天賞堂で純金ダイヤ入りの腕輪を特注している。

 「壮士芝居の座長川上音二郎は筑前博多の出生なるが、11歳の時※5 故郷を出てその後一度も帰郷せしことなき故…折から中村座で興行中…幕間に楽屋に招じ入れたれども、両親はいづれが実のせがれなるか見分けつかざりし由。やがてめでたく対面も済みたれば、両親は不日(ふじつ)帰県するにつき、川上は尾張町の天賞堂※6 へ純金ダイヤモンド入りの腕輪二個を注文し、出来の上はこれを両親に贈り、なお対面の祝宴を開くはずなりと…」(読売7/10。記事は今風にした。他も同じ)

 両親とは小田原の裁判で4月に会っているのに、「いづれが実のせがれか見分けつかざりし」とはねえ。それに、ダイヤ入り純金腕輪贈呈の親孝行はいいが、「うわべの飾りは良いけれど」と皮肉ったオッペケペーはどうするんだ笑。

 音さんのことをわたしは「川上音二郎の変」と呼んでいる。音さんはずうっと「音の変」をつづけとおした人物だ。「変」とは非常のできごと、本能寺の変などと使われるが、ここでは「音さんは変てこりん」、という意味も込めている。音さんも変だが、周囲もまきこまれて、当時の新聞も音さんを追っかけては右往左往しているみたいだ。

 おっと、今回は専蔵さんの法要の話のつづきだったけど、これも「音さんの変」のしわざか。法要は来月にまわそうっと。

※1 満27歳…私も27歳で漫画の連載を貰った。
※2 両親と音さんのエピソード…柳栄二郎『新派の六十年』/白川宣力『川上音二郎・貞奴』による。
※3 小田原で裁判…明治24年2月堺卯の日座で書生芝居を旗揚げした音さんは、横浜蔦座のあと小田原桐座で興行。「板垣君岐阜遭難実記」の開演中、二階座敷の酔漢が芝居に文句をつけた。音さんや俳優青柳捨三郎が芝居を中断して謹聴願いたいと演説するがまるで聞かない。怒った川上より早く青柳が二階へ飛び上がり、つづいて青柳の車夫もいっしょになり、二人で楽屋へ引きずり込んでみんなでポカポカ。舞台の音さんと藤沢浅次郎が観客諸君に謝りなさいと首根っこを押さえつけた。酔漢は豪家の息子で教員だった。観客に生徒の親たちもいて、教師が悪いとして罷免させた。
 桐座の次に鶴座で興行中、壮士20人ばかりがステッキや棒をもって芝居にいちゃもんをつけた。先の酔漢が30円で壮士達に仕返しをたのんだのだ。座員・車夫・総見物していた小田原の馬車屋らと、壮士たちの乱闘が始まり、警官隊が駆け付け、三つ巴の大騒ぎの結果、裁判に。(『新派の六十年』より略記)
※4 團十郎の弟子…中村座公演より前の2月の新聞記事。「…(音は)市川團州に会うて大いに俳優社会の徳義品行について論評するところありしにすこぶる團州の意に適して将来相提携するの約束もありしとか(読売2/17)」。
※5 11歳のとき…14歳(満13歳)で出奔というのが定説。
※6 天賞堂…時計店だった天賞堂が貴金属を取り扱いはじめたのは明治24年(天賞堂HP)。音さんの注文がきっかけかも?


長谷川法世=絵・文
illustration/text:Hohsei Hasegawa

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