『海游録※1』(以下A)は朝鮮通信使の記録でね。申維翰の紀行文なんだけど、つぎの相島滞在※2のところが不思議なんだ。
『雨森芳洲※3が藍島〈相島〉で余に贈った詩に「雄関月照覇家台」の句があり、「覇家台(博多)※4はいずこに在りや」と問うと、芳洲は次のように答えた。
「博多は和音で和加多となる。貴国の文忠公申叔舟※5が使臣として来られたとき、筆録※6して覇家台といわれた。これ、音訳の訛伝であるが、その義は佳なり。今呼んでもって名とす」』(A70頁。( )内訳者。〈 〉内法世)
芳洲の詩に、覇家台という地名があるので、何処かと尋ねると、芳洲が答えた。お国の申叔舟さんが1443年に来日したとき、博多の発音を聞いて覇家台と漢字でかかれた。正しくは和加多だけれど、すてきなので今もつかっている、と。
ね、不思議。まずは芳洲の和加多。ワカタとはねえ。
思いつくのは平安時代のなぞなぞ「父にはあわず母にはあうもの、な~んだ」、答えは唇。
だから、平安時代にはハハをファファと発音していたとか。
民俗学の柳田国男がいう※7には、京から遠い場所ほど古いことばが残っているそうだから、対馬では江戸時代でも博多をファカタと発音したのかも。
それで芳洲は和加多(和→ファ)とかいたのかもしれない。
そういえば、西洋人は室町以来、アルファベットでFACATA・FOCATA・FACATTAとかいた。歴史上は意外と最近までファカタと発音していた、とかアリだろうか。
もうひとつの不思議。
日本人が博多をハカタと読むように、申叔舟さんは覇家台と書いてハカタと読んだ、台をタとね。
それならだよ、申叔舟さんは、あの卑弥呼の「邪馬台」国を「ヤマタ」国と読んでたことにもなるじゃん。
んならば、あのスサノオノミコトが退治した八岐大蛇※8のヤマタと同音だけど、関係あるのかなあ。
いや逆に、台はタイとよみ、覇家台はハカタイかも。
申叔舟さんが博多をどう発音するのか聞いたら、人々は口々に博多弁で「ハカタたい、ハカタたい」といった。
ハカタのタが消音になり「ハカッタイ、ハカッタイ」と聞こえたもんで、申叔舟さんは覇家台(ハカタイ)と当て字した、てのはどうだろうか。
邪馬台国だって、女王卑弥呼はどこだときかれて、卑弥呼ばあちゃまは山菜採りに出かけていたんで、奴国の人々が古博多弁で「山たい、山たい」といったからだとにらんでいる。ヤマタイ国の由来だぞ~。
※1)海游録…申維翰著・姜在彦訳・平凡社東洋文庫。1719年吉宗将軍襲位の慶祝に来日した第9回通信使の製述官(日本との交渉・文化交流役)である申維翰の紀行文。
※2)相島滞在…漢城(ソウル)発4月11日→釜山発6月20日→対馬厳原発7月19日→壱岐勝本発8月1日→相島8月1日~10日(Aより)
※3)雨森芳洲…近江出身。江戸の木下順庵門下で11歳年長の新井白石と同期。対馬藩は朝鮮外交を幕府から一任され藩主らが通信使一行に往復つきそう。芳洲は接待佐役(補佐)として正徳・享保二度の通信使を迎接。享保の今回は10日ほどまえ対馬で維翰と激しく応酬したばかり。
※4)覇家台(博多)…訳本が覇家台=博多と注釈したのでかえって文意がわかりにくい。維翰は博多とは別の地名として場所を尋ねた。
※5)申叔舟…文忠は贈り名。1443年通信使として京都室町幕府を訪問。李氏朝鮮の最高の知識人。『海東諸国記』(1471)は日本・琉球の解説書。博多を、覇家台・石城府・冷泉津・筥崎津と称すと書く。ハングル制定に寄与(田中健夫訳・岩波文庫164頁)。諸国紀より古い日本紀行『老松堂日本行録』(1420頃)は博多を「朴加大」と書く(宋希〈王+景〉著・村井章介訳・岩波文庫)
※6)筆録…通信使と日本人はほぼ漢文の筆談。
※7)柳田国男がいう…『蝸牛考』中の「方言周圏論」
※8)八岐大蛇…やまたのおろち。古事記・日本書紀にでる出雲国の大蛇。8つの頭と尾をもつ。素戔嗚尊に退治され尾から出た天叢雲剣は天照大神に献上され、のちに草薙剣として神器となった87654321
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