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ハットをかざして 第194話 どこへでもお行き

ハットをかざして 第194話 どこへでもお行き


 会社にいるのが一番たのしかった。会社は冷暖房が効いており、愉快な仲間は多く、話は尽きない。アイデア会議は丁々発止で時はアッという間に過ぎていく。新聞は全紙揃っており、業界紙も週刊誌も月刊誌もおおむね揃っている。情報は読み放題である。会社にいれば、地元の、日本の、世界の情報に触れられ、アイデアの元になり、理論武装の武器になった。

 みな深夜まで仕事をする。多い時は30数社の広告を担当していた。銀行金融関係、不動産関係、各県観光、即席ラーメン、焼酎、コーラ、農産物や海産物、内実は競合クライアントも同時に担当していた。表現を考える、TVCM、ラジオCM、新聞広告、雑誌広告、ポスター、DM、あと販売促進のアイデア、小さな商品を市場で大きくしていくことが楽しみだった。

 夜中から明け方の会議も多く、営業がホテルを取ってくれて、セミスイートの部屋に食料を持ち込み、勝てるアイデアをチームで練っていた。もちろん、それから飲みに行くことも多く、屋台で腹ごしらえをして、もう帰ればいいのに中洲の深夜バーで朝までを過ごす。

 明け方が続いたころ、家のドアをそっと開け、玄関に足を踏み入れるとなんだか柔らかい、まるで新東宝で映画化された「ノンちゃん雲に乗る」(出演/鰐淵晴子)、である。けげんに思い、玄関の電気をつけると、私の上下の布団と枕が、たたきにぶち撒けられていた。私は自らの布団を踏んでいたのだ。

 男というものは飲み会で、ぼつぼつ帰ろうかとか、切り上げを先には言えない。『斗酒なほ辞せず』であり、いくらのんでも朗らかであり、座を盛り上げ、常に春風のようでなくてはならない。腕時計を見たりして時間を気にするのは、男の風上には置けない。先輩たちはつねに「もう一軒いくぞ、もう一軒いくぞ」が口癖だった。「私は、お先に…」なんぞ口が裂けても言えない。内心はまた女房が怒っているだろうな、とビクビクしていながら、うちは何時でも平気ですよ、と大口を叩いていた。

 ある日の明け方、いつものようにドアをそっと開けようとすると、中からドアチェーンが掛けられていた。榎本其角(江戸期の俳人、蕉門の十哲の一人)の「此の木戸や 錠のさされて 冬の月」を思い出す。左右10センチほどの隙間から、暗闇に向かって、小声で「おーい、おーい」と声をかける。返答はない。のぞいてみるに中は真っ暗である。また「おーい、おーい」と声をかけると、その10センチほどの隙間から女房の右腕が伸びてきた。

 「これを持って、どこへでもお行き」とジブリ映画に出てきた湯婆婆のような低い声が響く。両手で押し頂き、よく見ると、私のシャツとパンツ、靴下、ハンカチ一式がまとめられていた。どこかへお行き、といわれても行くあてはない。敵はドアののぞき穴からこちらを見ているだろう。ドアに背を向けて、背筋を伸ばし、30分間ほどまっすぐに立ち尽くしていると、新聞配達さんの足音が聞こえてきた。女房も聞こえたのか、カチャという音がして、ドアが開いた。女房は一言、「まいったか」とのたもうた。


中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評家、コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
新刊『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)

◎「西日本新聞TNC文化サークル」にて。
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※詳しくは ☎092・721・3200 まで

やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita

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