母が死んだ。89歳だった。昭和21年に1歳の姉を抱えて中国から引き揚げて来た。実家に長居はできず、食べていくために田舎町の引揚者マーケットで水商売を始めた。
経験はなく、「お客さんが来るのが怖かった」とよく言っていた。私は5歳の時、大腸潰瘍をおこした。ずっと血便ばかりで、夜は体温が35度をきる。母は私の周りに湯たんぽを5個おいて、体温の下がりを抑えた。当時、まだあまり入手できなかった抗生物質クロマイを手に入れ、私に飲ませた。それで一年ほど治療して治癒したが、家一軒分、私に使ったと言っていた。
小学校に入学して、深夜まで店では酔客がうるさく、勉強部屋の裏はパチンコ屋で玉洗い機の音がうなりを上げ、勉強どころではない。
とくに参観日が嫌いだった。母はアップの巻き髪にスプレーをいっぱいかけて、和服に長い黒羽織でやって来る。そのうえに金糸銀糸の横長の和装用バッグを小脇に抱いている。他のお母さん方は洋服姿で普通なのに気恥ずかしいものを感じていた。家庭訪問はなぜか我が家が一番最後で、先生は程よく酩酊するまで母のもてなし酒を飲んで帰る。中学までは全校で5番以内をキープしたが、ついに高校で数学、物理に挫折し、文学にのめり込んでいった。ドストエフスキーや太宰、オダサクに洗脳されていくと、成績順位とかがバカらしくなっていく。煙草を吸い、学生服のまま街のカフェで酒を飲み刑事に補導された。夜は塾に行くと噓を言い、ダンスホールに仲間ととぐろを巻いていた。紡績工場のお姉さんたちが目当てだ。
母の知らない娘と街を歩いていると、どこで見たのか、家に帰ると「あの娘はやめとき!」と叱責を受けた。
母の店はよく流行っていた。多い時は5人ほどの住込みのお姉さんたちがいた。みな美人ばかりで、飲み屋というものは美人さえそろえていれば儲かることを知った。うちの一人は通い詰めた税務署員に腹を刺され、なかには土建屋のお妾になったり、女の子管理も大変だっただろう。私の成績はとことん下降し、母は勉強しろと攻め立てる。逆にますます私は不良化する。
学生鞄にドスを一本入れているのを母に見つかった。「弱いのに限ってこんなんを持つ」と取り上げられた。電車通学組と決闘し、血まみれで帰ってきたとき、夜分に外科を起こし、傷口を縫わせた。飲み屋街の子だから、少し不良化しないと、他のグループから狙われる。母は「こん商売が、悪いんじゃろう」と泣いていた。
母の泣き顔をみてから心を改めたが、高3の終わりごろから勉強を再起動させても間に合うわけもなく、東京の二流私立へ行くこととなった。心を入れ替えて勉強し、大学の単位は3年までに取り終え、4年は卒論と就職活動だけとした。無事に会社も決まり、少しは母に恩返しができた。母はとにかく私を公務員か堅気にしたかった。
80歳代なっても元気で、「私はずっと死なんかもしれん」と豪語していたが、すい臓がんが見つかり、発病から5ヵ月でアッという間に89歳であの世とやらに旅立った。大正生まれの人生は戦争と敗戦で可哀そうなものだったが、母は宿命をよく闘った。
お母さん、そちらは何うですか。いいところに居ますか。
中洲次郎=文
text:Jiro Nakasu
昭和23年、大分県中津市生まれ。
博報堂OB。書評&映画評論家、
コラムニスト、エッセイスト。
近著「伊藤野枝と代準介」(矢野寛治・弦書房)
『反戦映画からの声』(矢野寛治・弦書房)
『団塊ボーイの東京』(矢野寛治・弦書房)
新刊『我が故郷のキネマと文学』(矢野寛治、弦書房)
◎「西日本新聞TNC文化サークル」にて。
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※詳しくは ☎092・721・3200 まで
やましたやすよし=イラスト
Illustration:Yasuyoshi Yamashita